高野山森林鉄道の遺構を見てきました
- 2016-03-31│
- 日記
3月も終わるころ、30日に暁さん、ほくとさん、ひろしさんと共に
高野山に広がる近畿地方では最大級の森林鉄道である、
高野山森林鉄道の遺構や、線路後を散策してきました。
ここから先、様々な探索においては獣害や転落、および生き埋め等、
生命に危険が及ぶ状況に陥る場合があります。
もし同じような行為をされ様々な危険が及んでも、我々はそのことにつきまして
一切の責任を負いかねます。探索はすべて自己責任で行ってください。
また、路線跡などの考察はあくまで個人の趣味によるものであり、
情報収集の結果や、管理人の独自的な見解等も含まれます。
開通から100年以上が経過し、全路線の廃線から50年以上は経っているので、
正確な情報の入手がとても困難である事をご理解くださいませ。

まずはこちら...。
高野山に広がる近畿地方では最大級の森林鉄道である、
高野山森林鉄道の遺構や、線路後を散策してきました。
ここから先、様々な探索においては獣害や転落、および生き埋め等、
生命に危険が及ぶ状況に陥る場合があります。
もし同じような行為をされ様々な危険が及んでも、我々はそのことにつきまして
一切の責任を負いかねます。探索はすべて自己責任で行ってください。
また、路線跡などの考察はあくまで個人の趣味によるものであり、
情報収集の結果や、管理人の独自的な見解等も含まれます。
開通から100年以上が経過し、全路線の廃線から50年以上は経っているので、
正確な情報の入手がとても困難である事をご理解くださいませ。

まずはこちら...。
あ
花坂地区に存在する、高野山森林鉄道では唯一となる、
鉄道用隧道を車道に転用したとされるトンネル、花坂隧道。

隧道内部は崩落の危険があるとのことですが、反対側の光が見えるので、
素掘りのトンネルですがまだまだ崩れる気配はなさそうです。
今回はあくまでも下見のようなものなので、中に入ることはしませんでした。
というか、結構ビビりなので軽々しい気持ちで入りたいとは思いません()
もう少し装備を整えてからどうにかしたいものです。
この隧道は「tunnel web」様の日本全国トンネルリストによると昭和40年完成、
長さ407メートル、車道部分の幅は2.4メートルで高さは2.6メートルとのこと。
しかし昭和40年は1965年なので、これはおそらく廃線跡を道路整備し、
花坂隧道を車道転用した時期だと考えられます。

トンネルを通らず、上を通っている国道370号線と国道480号線を使い、
反対側の入り口にやってきました。

こちら側ですが、実は2連のトンネルになっており、
画像の出口が花坂隧道の出口です。
ここには壁の右側に真新しい銘板が取り付けてあるそうですが、
そちらには昭和58年3月と書かれてあります。これは改修年度であるとのこと。
花坂地区を通る林鉄花坂線の開通が昭和3年とかなり古い時期であること、
昭和40年誕生のわりに、内部が素掘りになっているという違和感から、
昭和一桁の時代に誕生した花坂線の遺構を改修に改修を重ねて
現代まで生きながらえているというものなのでしょう。
ただ、コンクリートによる洞門は一応後で紹介するトンネルにもありますので、
車道への改修で洞門がコンクリートになったということではないかもしれません。
特に、この花坂線は高野林鉄の廃止まで残っていた路線ですので、
林鉄用としての現役時に改修がなされた可能性もあります。
さて、花坂隧道がとても長くなってしまいましたし、次の遺構へ行きましょう。
花坂隧道南側の出口からまっすぐに南に進むと、国道480号線を経由せず、
高野山外周道路方面へと繋がる林道があり、しばらく森林鉄道跡と近い部分を走行します。

しばらく走行すると、林鉄はコンクリートの大きな橋を渡って林道とは離れます。
今でも写真のように橋脚が綺麗に残っており、
目に見てはっきりとわかる遺構はこれ以上ありませんでした。

下に流れる川の方へ目をやると、ようやく鉄道遺構らしい一品が...。
ここからしばらく走行し、右側のがけ下にあるらしい林鉄の石垣や
木組みの橋台跡を探したのですが、見つけることができず...。

そのまま花園方面もしくは大門へ向かえる道路にぶつかってしまったので、
花園方面へ少し南下、湯川地区にある林鉄のトンネルを探し、見つけました。
このトンネルは先ほど探していた石垣や木組みの橋台のある場所から
木材の搬出所を通ってからやってくる場所で、
この後線路は大門方面へ伸びていたといわれています。
事前の情報検索等で、「数年前までは洞門が見えていたが現在は盛り土で
ふさがっている」等の情報がありましたが、現在も残っていることが確認できました。
こちらのトンネルも花坂隧道と同じように洞門はコンクリート、内部は素掘りです。

内部の様々な場所で崩落が起こっており、向こう側の光が見えません。
しかし洞内から冷たい風が吹いてきており、今も貫通はしているようです。
洞内には雪解け水が浸入しており、踏破には長靴などが必要とされていますが、
花坂隧道以上に崩落の危険があります(というか崩落してる)ので、
気軽な侵入は控えたほうが良いと思います。土木業者を装備することを推奨。

このトンネルが鉄道遺構であることを象徴する碍子が残されていました。
ところで、このトンネルの洞門が立っているあたりは、盛り土される前は
すぐ横を橋で渡って通過する道路の旧道が目の前にあったはずです。
車道の横にぽっかりと口を開けたこの通称「湯川トンネル」という配置。
そして調べた中では高野林鉄のトンネル遺構のうち、比較的道路に近い
「花坂隧道」とこの「湯川トンネル」のみ洞門がコンクリートになってる共通点。
もしかすると湯川トンネルは林道用の車道に供用されていたのかもしれません。
この旧道をパスする橋ができたのが平成8年と比較的新しいため、くまなく探せば
何か当時の情報を見つけられるかもしれませんが、未だ何も見つからず...。
しかし碍子まで残した状態で、内部も簡易的な補修しかされていないため、
車道への転用は可能性が低そうかな...。真相はわかりません。
この後、南下してきた道を戻り、大門方面へ向かいました。
高野山で少し観光(?)した後、次の遺構があるところまでまた移動です。

不動坂を徒歩でえっちらおっちら極楽橋の方へ歩いていき、
清不動堂のすぐ横にある通称「不動坂トンネル」を見に行きました。
こちらは前の2つのトンネルと違い、洞門付近も素掘りの状態で残っています。
しかし、入り口の右上あたりが崩れているようで、形が変わった状態。

素掘りで状態も悪いですが、内部は広い空間があり、
反対側もきちんと貫通しています。逆側は土砂の流入が激しく、
断面から見ると「へ」の字を逆向きにした状態になっています。
ここから歩いて再び高野山集落に戻り、神谷地区に残る遺構探査へ。
今回は奥の院に残る遺構と、円通律寺付近のトンネルはパスしました。
円通律寺トンネルに関しては、西側の洞門付近に新たに
高野山外周道路が完成したため遺構の消滅が危惧されていますが、
それはまた別の機会に回すことに...。

ということで神谷地区にやってまいりました。
写真中央左側の地面が、周囲に比べて一段盛り上がっています。
この部分がちょうど軌道跡と思われる場所です。

少し場所を左側に移して、軌道跡の先を見るとトンネル跡を発見。
通称「神谷トンネル」と呼ばれているものです。
ここは道路から少し離れており、軌道跡へ降りても登ることが容易ではないと
判断したので、降りずに道路から観察をしました。
このトンネルは素掘りで、入り口付近が少し崩れている程度なんですが、
残念なことに入ってすぐ完全に閉鎖されてしまっています。
トンネルの上部にはおそらく近年平らに整地された土地があり、
逆側の出口と推測されるあたりからは支線の後が残っているそうで。

先ほどの写真の場所から極楽橋の方に数十メートル移動すると、
写真中央に写っている石垣でできた橋台を見ることができます。
写真を撮っているところが車道で、ここは元々軌道だったそう。
車道ではまっすぐ神谷トンネルのある斜面とは反対側の斜面に向かいますが、
軌道は大きく迂回しながら神谷トンネル洞門の真横にやってくるようで、
神谷トンネル自体は本線ではなく支線のトンネルであるらしいのです。
ただ、この付近の当時の地図を今はなくなってしまったサイト様で見たことがあり、
軌道は橋台の付近から迂回を開始し...

今も残るコンクリートの橋脚の上にかけられた橋を渡ってからぐるっと
180度回り込んで神谷トンネルを通り、高野山方面に向かっていました。
当時の地図がどこまで正確だったかはわかりませんし、
この神谷トンネルの向こう側に支線ないし引き込み線があったらしいので、
この辺も正確なことはよくわかっていません。

さて、橋台の位置からさらに極楽橋方面に向かうと切通しがあります。
ここも軌道跡になります。
ちなみにこの神谷地区の軌道は林鉄の営業中に3度ほど付け替えや
迂回軌道の開通などがあり、どの場所がどの時代のものとははっきりしません。
この切通しから神谷トンネルに向かう方向には交差点があり、その交差点を
東方向に向かうと民家の脇を通って軌道跡らしき道筋に差し掛かりますが、
現状では荒れ果てているので何が何だかわかりません。
ただ、この道筋はグーグルマップに表示されているので元車道の可能性があります。
高野山森林鉄道の軌道跡の多くは車道に転用されているので、もしかすると...。

切通しから少し行ったところに、謎の構築物が出てきます。
この構造物ですが、上部に板状のカバーをし、木材索道のケーブルを
車道に接触させるのを回避させるためのものだとか、
インクラインの構造物の一部だとか言われています。
インクラインの位置ははっきりとしてないんですが、極楽橋駅の
近くにあることだけは確かだったと思います。
ちなみに、神谷トンネルの時にも書きました今は消えてしまった
ウェブサイト様には全線路線図や神谷インクラインの写真もあったんです。
神谷インクラインの写真は今もウィキペディアの高野山森林鉄道のページで
見ることができますが、結構規模の大きなもので、開けたところから
一気に山頂に登っていくような写真です。今では見当もつきません...。
全線路線図はほんの数年前までは調べたら出てきたんですが、
今はどれだけ調べてもでてこない...。

どうも最近補修されたらしく、車道上部のコンクリートが真新しいところが。
壁の上部にはおそらく林鉄の線路を流用して作られた柵が立っています。

さらに極楽橋に近づくと、このようなS字を描く橋を渡ります。
下には南海高野線が走っており、かなり近くから電車の屋根を見ることも可能。
一応ここは高野山森林鉄道の軌道跡らしき部分ですが、この橋自体は
車道になった後にかけられたもので、軌道のときには別の橋がかかっていました。
この橋の橋脚の間に何とも怪しいものが1つ混ざっています。

石積みとコンクリートでできた橋脚が残っています。
この橋脚は1951年にインクラインが廃止、迂回路ができたときのものと思われ、
開業当初からの木組み橋脚とはできた年代が違うことを物語っています。

そのまま極楽橋の方に進むとこんなところにでます。
まっすぐ行けば南海の極楽橋駅、左の坂道を上がれば極楽橋を渡り
不動坂の方に出てそのまま清不動堂の方面へ向かう道に。

極楽橋の橋脚の近くには林鉄が使っていた橋台と橋脚が。
ここで林鉄は我々が歩いてきた道からここにかかっていた橋を渡って
対岸に渡ります。現役当時の写真が残っており、
比較的軌道がどうなっていたかを探りやすい場所です。

少し気になるのは、両岸にある橋台と、橋脚の位置が少しずれていることです。
橋台はきちっと岸に対して直角で直線を描いて繋がるのですが、
橋脚は少し上流側にオフセットされています。
対岸の橋台よりも上流側になにか怪しい遺構がありますが、これが
何なのかはいまいちはっきりしません。当時の写真には橋脚の位置までしか
映っていないので、確認が不可能...。

最後に、細川地区にある花坂線との分岐地点にあった橋台跡を見て、
今回の探索はひとまず終了となりました。
この橋台跡から花坂線の跡をたどることができ、最終的に
一番最初に訪問した花坂隧道に繋がります。
この後難波のやよい軒で晩御飯を食べた後、解散となりました。
結構な距離を歩いたり、足場が悪かったりで
結構疲れましたが、充実した探索となったと思います。
まだ訪問できていないところもあるので、足を運ぶことは多そうです。
花坂地区に存在する、高野山森林鉄道では唯一となる、
鉄道用隧道を車道に転用したとされるトンネル、花坂隧道。

隧道内部は崩落の危険があるとのことですが、反対側の光が見えるので、
素掘りのトンネルですがまだまだ崩れる気配はなさそうです。
今回はあくまでも下見のようなものなので、中に入ることはしませんでした。
というか、結構ビビりなので軽々しい気持ちで入りたいとは思いません()
もう少し装備を整えてからどうにかしたいものです。
この隧道は「tunnel web」様の日本全国トンネルリストによると昭和40年完成、
長さ407メートル、車道部分の幅は2.4メートルで高さは2.6メートルとのこと。
しかし昭和40年は1965年なので、これはおそらく廃線跡を道路整備し、
花坂隧道を車道転用した時期だと考えられます。

トンネルを通らず、上を通っている国道370号線と国道480号線を使い、
反対側の入り口にやってきました。

こちら側ですが、実は2連のトンネルになっており、
画像の出口が花坂隧道の出口です。
ここには壁の右側に真新しい銘板が取り付けてあるそうですが、
そちらには昭和58年3月と書かれてあります。これは改修年度であるとのこと。
花坂地区を通る林鉄花坂線の開通が昭和3年とかなり古い時期であること、
昭和40年誕生のわりに、内部が素掘りになっているという違和感から、
昭和一桁の時代に誕生した花坂線の遺構を改修に改修を重ねて
現代まで生きながらえているというものなのでしょう。
ただ、コンクリートによる洞門は一応後で紹介するトンネルにもありますので、
車道への改修で洞門がコンクリートになったということではないかもしれません。
特に、この花坂線は高野林鉄の廃止まで残っていた路線ですので、
林鉄用としての現役時に改修がなされた可能性もあります。
さて、花坂隧道がとても長くなってしまいましたし、次の遺構へ行きましょう。
花坂隧道南側の出口からまっすぐに南に進むと、国道480号線を経由せず、
高野山外周道路方面へと繋がる林道があり、しばらく森林鉄道跡と近い部分を走行します。

しばらく走行すると、林鉄はコンクリートの大きな橋を渡って林道とは離れます。
今でも写真のように橋脚が綺麗に残っており、
目に見てはっきりとわかる遺構はこれ以上ありませんでした。

下に流れる川の方へ目をやると、ようやく鉄道遺構らしい一品が...。
ここからしばらく走行し、右側のがけ下にあるらしい林鉄の石垣や
木組みの橋台跡を探したのですが、見つけることができず...。

そのまま花園方面もしくは大門へ向かえる道路にぶつかってしまったので、
花園方面へ少し南下、湯川地区にある林鉄のトンネルを探し、見つけました。
このトンネルは先ほど探していた石垣や木組みの橋台のある場所から
木材の搬出所を通ってからやってくる場所で、
この後線路は大門方面へ伸びていたといわれています。
事前の情報検索等で、「数年前までは洞門が見えていたが現在は盛り土で
ふさがっている」等の情報がありましたが、現在も残っていることが確認できました。
こちらのトンネルも花坂隧道と同じように洞門はコンクリート、内部は素掘りです。

内部の様々な場所で崩落が起こっており、向こう側の光が見えません。
しかし洞内から冷たい風が吹いてきており、今も貫通はしているようです。
洞内には雪解け水が浸入しており、踏破には長靴などが必要とされていますが、
花坂隧道以上に崩落の危険があります(というか崩落してる)ので、
気軽な侵入は控えたほうが良いと思います。土木業者を装備することを推奨。

このトンネルが鉄道遺構であることを象徴する碍子が残されていました。
ところで、このトンネルの洞門が立っているあたりは、盛り土される前は
すぐ横を橋で渡って通過する道路の旧道が目の前にあったはずです。
車道の横にぽっかりと口を開けたこの通称「湯川トンネル」という配置。
そして調べた中では高野林鉄のトンネル遺構のうち、比較的道路に近い
「花坂隧道」とこの「湯川トンネル」のみ洞門がコンクリートになってる共通点。
もしかすると湯川トンネルは林道用の車道に供用されていたのかもしれません。
この旧道をパスする橋ができたのが平成8年と比較的新しいため、くまなく探せば
何か当時の情報を見つけられるかもしれませんが、未だ何も見つからず...。
しかし碍子まで残した状態で、内部も簡易的な補修しかされていないため、
車道への転用は可能性が低そうかな...。真相はわかりません。
この後、南下してきた道を戻り、大門方面へ向かいました。
高野山で少し観光(?)した後、次の遺構があるところまでまた移動です。

不動坂を徒歩でえっちらおっちら極楽橋の方へ歩いていき、
清不動堂のすぐ横にある通称「不動坂トンネル」を見に行きました。
こちらは前の2つのトンネルと違い、洞門付近も素掘りの状態で残っています。
しかし、入り口の右上あたりが崩れているようで、形が変わった状態。

素掘りで状態も悪いですが、内部は広い空間があり、
反対側もきちんと貫通しています。逆側は土砂の流入が激しく、
断面から見ると「へ」の字を逆向きにした状態になっています。
ここから歩いて再び高野山集落に戻り、神谷地区に残る遺構探査へ。
今回は奥の院に残る遺構と、円通律寺付近のトンネルはパスしました。
円通律寺トンネルに関しては、西側の洞門付近に新たに
高野山外周道路が完成したため遺構の消滅が危惧されていますが、
それはまた別の機会に回すことに...。

ということで神谷地区にやってまいりました。
写真中央左側の地面が、周囲に比べて一段盛り上がっています。
この部分がちょうど軌道跡と思われる場所です。

少し場所を左側に移して、軌道跡の先を見るとトンネル跡を発見。
通称「神谷トンネル」と呼ばれているものです。
ここは道路から少し離れており、軌道跡へ降りても登ることが容易ではないと
判断したので、降りずに道路から観察をしました。
このトンネルは素掘りで、入り口付近が少し崩れている程度なんですが、
残念なことに入ってすぐ完全に閉鎖されてしまっています。
トンネルの上部にはおそらく近年平らに整地された土地があり、
逆側の出口と推測されるあたりからは支線の後が残っているそうで。

先ほどの写真の場所から極楽橋の方に数十メートル移動すると、
写真中央に写っている石垣でできた橋台を見ることができます。
写真を撮っているところが車道で、ここは元々軌道だったそう。
車道ではまっすぐ神谷トンネルのある斜面とは反対側の斜面に向かいますが、
軌道は大きく迂回しながら神谷トンネル洞門の真横にやってくるようで、
神谷トンネル自体は本線ではなく支線のトンネルであるらしいのです。
ただ、この付近の当時の地図を今はなくなってしまったサイト様で見たことがあり、
軌道は橋台の付近から迂回を開始し...

今も残るコンクリートの橋脚の上にかけられた橋を渡ってからぐるっと
180度回り込んで神谷トンネルを通り、高野山方面に向かっていました。
当時の地図がどこまで正確だったかはわかりませんし、
この神谷トンネルの向こう側に支線ないし引き込み線があったらしいので、
この辺も正確なことはよくわかっていません。

さて、橋台の位置からさらに極楽橋方面に向かうと切通しがあります。
ここも軌道跡になります。
ちなみにこの神谷地区の軌道は林鉄の営業中に3度ほど付け替えや
迂回軌道の開通などがあり、どの場所がどの時代のものとははっきりしません。
この切通しから神谷トンネルに向かう方向には交差点があり、その交差点を
東方向に向かうと民家の脇を通って軌道跡らしき道筋に差し掛かりますが、
現状では荒れ果てているので何が何だかわかりません。
ただ、この道筋はグーグルマップに表示されているので元車道の可能性があります。
高野山森林鉄道の軌道跡の多くは車道に転用されているので、もしかすると...。

切通しから少し行ったところに、謎の構築物が出てきます。
この構造物ですが、上部に板状のカバーをし、木材索道のケーブルを
車道に接触させるのを回避させるためのものだとか、
インクラインの構造物の一部だとか言われています。
インクラインの位置ははっきりとしてないんですが、極楽橋駅の
近くにあることだけは確かだったと思います。
ちなみに、神谷トンネルの時にも書きました今は消えてしまった
ウェブサイト様には全線路線図や神谷インクラインの写真もあったんです。
神谷インクラインの写真は今もウィキペディアの高野山森林鉄道のページで
見ることができますが、結構規模の大きなもので、開けたところから
一気に山頂に登っていくような写真です。今では見当もつきません...。
全線路線図はほんの数年前までは調べたら出てきたんですが、
今はどれだけ調べてもでてこない...。

どうも最近補修されたらしく、車道上部のコンクリートが真新しいところが。
壁の上部にはおそらく林鉄の線路を流用して作られた柵が立っています。

さらに極楽橋に近づくと、このようなS字を描く橋を渡ります。
下には南海高野線が走っており、かなり近くから電車の屋根を見ることも可能。
一応ここは高野山森林鉄道の軌道跡らしき部分ですが、この橋自体は
車道になった後にかけられたもので、軌道のときには別の橋がかかっていました。
この橋の橋脚の間に何とも怪しいものが1つ混ざっています。

石積みとコンクリートでできた橋脚が残っています。
この橋脚は1951年にインクラインが廃止、迂回路ができたときのものと思われ、
開業当初からの木組み橋脚とはできた年代が違うことを物語っています。

そのまま極楽橋の方に進むとこんなところにでます。
まっすぐ行けば南海の極楽橋駅、左の坂道を上がれば極楽橋を渡り
不動坂の方に出てそのまま清不動堂の方面へ向かう道に。

極楽橋の橋脚の近くには林鉄が使っていた橋台と橋脚が。
ここで林鉄は我々が歩いてきた道からここにかかっていた橋を渡って
対岸に渡ります。現役当時の写真が残っており、
比較的軌道がどうなっていたかを探りやすい場所です。

少し気になるのは、両岸にある橋台と、橋脚の位置が少しずれていることです。
橋台はきちっと岸に対して直角で直線を描いて繋がるのですが、
橋脚は少し上流側にオフセットされています。
対岸の橋台よりも上流側になにか怪しい遺構がありますが、これが
何なのかはいまいちはっきりしません。当時の写真には橋脚の位置までしか
映っていないので、確認が不可能...。

最後に、細川地区にある花坂線との分岐地点にあった橋台跡を見て、
今回の探索はひとまず終了となりました。
この橋台跡から花坂線の跡をたどることができ、最終的に
一番最初に訪問した花坂隧道に繋がります。
この後難波のやよい軒で晩御飯を食べた後、解散となりました。
結構な距離を歩いたり、足場が悪かったりで
結構疲れましたが、充実した探索となったと思います。
まだ訪問できていないところもあるので、足を運ぶことは多そうです。
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